「………あかんわ、俺。結構かなり聡い奴やと思っとったんやけどな」
「…はぁ?」
「……遅すぎやろこれは」
「…何が?」


『不測の事態×2』


その日は、氷帝テニス部の歴史がひっくり返った日だった。

一度墜ちた宍戸の、レギュラー復帰。敗者は二度と表に立てないという伝統を、見事に塗り替えた。
引き上げた部室で宍戸はレギュラー達に手荒い歓迎を受け、感極まった鳳に泣きつかれ、全員でどうにか引っぺがしたところだ。騒ぎ過ぎていつの間にか下校時刻までカウントダウンになっている事に気付き、皆慌しく着替えている。
急ぎ過ぎて床に落としたままになっていた岳人のユニフォームを慈郎が踏んで、大喧嘩になっているのにキレた跡部が拳骨を食らわせた。

本当にここはセレブ学校かと疑ってしまうような喧騒の中で、ただ忍足だけが全く違う空気を纏っていた。
何かに得心したように顎に指を当て呟いているが、その得心した何かに呆然としているようで、珍しく少し見開かれた目はどこに焦点が定まっているのか分からない。見れば、ジャージの袖を片方抜いたままの状態でフリーズしている。
「遅せーのはお前の着替えだろ!ホラ、早くしねーとお前も跡部に殴られっぞ!」
忍足を挟んで喧騒と反対側に居た宍戸は、普段クールな友人のあり得ない(部内では良くあるのだが)マヌケ姿に
(やべ、コレ撮ってやろうかな)
などと思いつつ、その背を勢い良く叩いた。

バン!ガン!

と、けたたましく衝撃が響く。一瞬の間があって、開けたロッカーの角に額をめり込ませたまま、忍足の目が宍戸に向いた。
「…なぁ宍戸、今日一緒に帰らへん?」
焦点の定まった黒い瞳は無駄に高い天井の蛍光灯から陰になって、微かな感情すら読み取れない。深く、まるでブラックホールのように吸い込まれそうなその視線に、宍戸は『何か違う』ものを感じながらも頷いた。


「お前と二人で帰るのって、なんか珍しいよなー」
「そうやな」
「跡部達まだ戦(や)ってんのかな、マジで校門閉められちまうよな」
「そうやな」
「………」
すっかり日の落ちた校庭を、忍足と宍戸はゆっくり横切っている。あのあと、猛スピードで着替えを終えた忍足は、『この頭のまま外出たらやっぱ変かな』と乱暴に切り落とした髪を気にする宍戸を引っ掴み、半ば強引に、三つ巴に突入して今度は鳳と樺地が岳人と慈郎と跡部をなだめようと必死なのを尻目にバッグを担いで部室のドアをくぐろうとしていた日吉を蹴倒して、喧騒渦巻く部室から飛び出した。
「なぁお前どうしたんだよ?おかしいぜ?」
強く引っ張られたせいで伸びてしまった襟を直す事を諦めた宍戸は、さっきからずっと行動のおかしい忍足が心配になってきている。

皆で部室に戻った時は、岳人達と一緒になって殴ったり騒いだり、自分のレギュラー復帰を喜んでくれたのだから、二人きりになったからと言ってそれを非難される訳じゃないと思ってる。と言うか、そんな狡い真似をする奴じゃない。
そう確信しているからこそ、真意の判らない忍足の態度が気になる。

そうして覗き込んでくる宍戸の視線に、忍足はゆっくりと歩みを止めた。
「あんなぁ宍戸、ちょぉ正直に答えて欲しい事があんねん」
両手をズボンのポケットに入れたまま、体ごと向き直る。
「…いいぜ?何だよ」
それに頭だけ向けて、宍戸は先を促した。いぶかしんでいる事を、そのまま声音に乗せて。
「……あんなぁ・お前、鳳の事どう思っとる?」
「…は?なんだよソレ、長太郎?アイツがどうかしたのか?」
神妙な顔になったと思ったら発せられた質問の奇妙さに、宍戸は全く訳が分からない。
「どうもせぇへんよ…多分。な、正直に言うてや。どう思っとる?アイツん事」
「どうって…いい奴だぜ?無駄かも知んねぇ特訓に毎日夜遅くまで付き合ってくれてよ。さっきもすげー必死に捨て身になってくれようとしたし…勿論そんな事になったら俺は許さねぇけどな!…後輩に懐かれた事ねーから、やっぱ…嬉しいよな」
そう一気に言って、宍戸は照れたような笑顔を向ける。その笑顔が、ポーカーフェイスを纏う忍足の心をざわめかせる。

「…好きか?鳳が」

なににも隠さなかった問い方に、衝撃を受けたのは自分の心だけ。
「そりゃ…好き・だろ…。っつか恥ズい事言わせんなよ!お前だってそーだろ!?……え、まさか、嫌い…なのか?」
宍戸の目は、『チームメイトの事が嫌いなんて嘘だろ?』と語っている。
それを読み取れて、忍足は気付かれないようにそっと一つ息を吐いた。
レギュラー復帰のあの騒動の時から高く波立っていた心が、少しだけ和らいでゆく。
苦笑のような笑顔を見せて、
「さっきな、ふと気付いたんや」
「……あ?」
「俺が、もし俺が鳳やったら…いや、俺にはあんなビッグサーブはあらへんからあの特訓の役には立てへんのやけど、もし…毎日毎晩一緒におれたのが、自分やったら…」
「忍足?」
苦笑の笑顔が、言葉をつのる度に自嘲に変わっていく。
「はは…みっともな。俺、2年相手にやきもちやで?しかも今更や。アホもええとこやわ」
「…え?」

「宍戸、俺、お前が好きや」


「………………へ?」

宍戸の顔にはありありと、『そんな当然の事何で改まって言ってんのか分かんねぇ』と書いてある。予想通りの反応に、忍足は自嘲が苦笑に戻っていくのを感じた。
そして一歩、足を進める。
「鳳がお前のために監督に口答えしよった時、何やえらいイラついたんや。たかが二週間一緒におったぐらいでお前のヒーロー気取りか、てな」
深刻な顔して近付いて声を潜めたかと思えばあまりに子供くさい台詞に、宍戸は一瞬呆気にとられてしまった。
「お前そりゃ…言い過ぎだろ、っつーかヒーローって!…激ダサだぜその発想!」
「ほんまや。何がダサいて、そん時よーやっと気付いた自分の鈍さや…」
「…そーいやぁさっきもそんな事言ってたよな、いったい何が鈍いんだよ?」

…こいつもこいつで相当なニブちんや…と思う。
ついほんの今、自分はハッキリ告ったのに、見事なほどスルーしてこの言いざまだ。

「俺がな、中学ずーーーっとお前と一緒におって、お前が好きやて自覚したんが今日ついさっきやった・っちゅーのが、鈍いて言うてんのや」

細かく噛み砕いて説明してやると、ようやく宍戸にも『仲間だから好き』なのとは違うのかも?と言う考えが浮上してくれたらしい。苦笑する忍足を映したまま、その目を見開いて固まっている。
「え、ちょっ、忍足、お前まさか…」
「堪忍してぇな〜三べんも言わすつもりか?自分鬼やわ〜。俺、めっちゃ恥ずかしいんやで今!」
「だってお前、信じられっかよそんな話!」
宍戸は完璧にこんがらがっていた。仲間じゃない意味で好きと言われて、でも相手はチームメイトで男で、赤くなっていいのか青くなっていいのかハッキリ言って分からない。
ぐるぐる混乱していると、ふいに左肩に重さを感じた。

「ほんなら、俺の本気見せたるわ」
「は、」

混乱した脳細胞は、抜群の反射神経を会得した体をも鈍らせていた。


 やけに間近な度無しの眼鏡

 やけに身近なひとの体温

 やけに熱い、己の唇…


「…信じてくれた?ほな帰ろか」
ハッと気付くと、眼前の忍足はさっきと変わらない苦笑を浮かべていて。
度無しの眼鏡もその体温も、もう感じられない。
そのかわり、口唇に残った熱だけが、一層赤々と燃え上がったよう。

「…何…してくれたんだ…クソメガネっ…」
数歩先を歩いて行く忍足の背中に向かって、悪態を吐いた宍戸の顔色は、うっすらと赤に染められていた。


end…;;